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第二回プラチナサロン(10/25)で、参加の皆さんから寄せられた力強い「励ましのメッセージ」を、今日夫君の卓夫君(61年度)に手渡してきました。 佐久子さんの現役時代を良く知る仲間からの寄せ書きと、佐久子さんを応援しよ … 続きを読む
昨年12月5日ギックリ腰発症(既報)、2月17日帯状疱疹ですねという診断を受ける。いずれも生まれて初めての体験であり、それなりに驚き初体験の痛さと生活のしづらさをいやと言うほど味わった。これも後期高齢者への通過儀礼か?針療院の理学療養士も、皮膚科の医師も「疲れ」ですね、という診断。「疲れ?」そんなバカな・・・と聞き流していた。
思いがけないことであろうとなかろうと、物事には原因と結果がある。人間の体も必ずこの原則に従うはずだ。
◆ギックリ腰発症の原因を追う
1)8月からジムトレーニング内容のレベルアップに加えて、9月初めよりジムから帰りの時間(ジムまで往復二時間歩く)を使って、インターバルでのスロージョギングを始めていて、11月中旬辺りから左足膝の裏側の筋に痛みが出た。その内に直るだろうと歩いて通っていた。発症の12月5日は久々にその痛みはなく「今日は良いな!」と感じていた。
2)同じような頃だったか「食後すぐ寝ると逆流性食道炎になる」と、TVか何かで聞きかじり、昼寝の時、頭と足を高くして、なだらかなV字型で小1時間寝るようになった。短時間でも熟睡するとトレーニングの疲れも取れ、すっきりした気分になった。11月になった頃か「下肢の疲れが取れていないな」と、感じる日が続いていた。
◆経過(以下は医師との会話で)
12月5日ジムでギックリ腰を発症して
◆その瞬間から別人。
腰のはずなのに体全体が、わずか1分前のように動かない。最も自信のあった下肢が上体を支えられず、立とうとしても立てない、肝心な所に力が入らず、すぐヨロケ体の軸が定まらない・・・後で気付いたのだが、「やる気」潮が引くように失せた。上下の体の軸がブレルと、背中の下部に思わず声が出てしまうような激痛が走る。呼吸が乱れ、すぐハアハアする。一度立ち上がってしまうと痛みはなくゆっくりなら歩けるのだが、腰が定まらず膝は曲がり、あ痛、タ、タ・・・。 ジム仲間が手を貸してくれ、嬉しかったし、本当に助かった。手を借りてタクシーで鍼灸院へ直行。電気刺激とハリ治療を受ける。
21世紀型産業に観光は、大きな期待ができる分野だと思う。日本と言う国の良さや歴史を正しく理解してもらい、その中から日本人のもの考え方などを知ってもらう事はすべての出発点となると思うから。それにも増して、観光が持つ土着性と言うか地域の香りと共にある所に働き場所が生まれ、人が来て交流して活性化することは産業としての土台ができる。古来日本人には観光には遊びと言う要素が色濃く、これまでやりたい人がやっている程度で、全国個々ばらばら「来たい人が来たら」的だった。ここらで観光立国を唱えるなら、ニーズをしっかり汲み上げ「Systematicにリピータを作ろう!」と、観光庁へ提案しました。
◆◆◆双六ゲーム式による観光誘致&リピータの創造◆◆◆
「日本らしさ(良さ)」は平面的には語り難く、ましてや旅行者にありがちな一過性では理解が深まらない。このことは外国人が良く知っていて、特に多く外へ出る人達は、特定の場所を複数回訪ねるなど、専門分野への関心が高い。
所が、全国に関連する場所が分散していることが多く、交通機関が便利な半面複雑で、現地へ到達するのに費用と日数を要している。と云うことで、その専門分野(入門編から上級編まで)を効率的に周遊できる「双六式ガイドブック」(当り・ゴールなどのインセィチブを一体化したシステム)を作り、国の内外に配付して(販売しても良いか?)勧誘し、浸透させる。
追悼文
戸丸朝二さん(朝アニイ)の逝去に寄せて 2016年10月17日
尺取庵 川井宏作
私達が知りあった時(1963年)、朝二さんは30歳になるかならない頃だった。この頃から「朝アニイ」と、村の人達から呼ばれていた。それで私達も、親しさの増す中で朝アニイと呼ぶようになった。朝二さんは若い頃からそれに相応しい人柄だったからだろう。無口で力持ち、それで働き者。だが自分の意見はしっかり持っていて、村の長老や、時に村長にも、自分の考えをはっきり言っている場面に出会ったからよく知っている。私達のような新参者と言うか、たかが大学生にも実に面倒見が良かった。格好付けや、自己顕示のためではなく、田舎の人らしい極自然に面倒見が良い人だった。この頃の田舎の人は、外部の人に慣れしていないことや、引っ込み思案な人が多く、余り外部の人間には近づかないものだが、朝アニイは全くそう言う所がなかった。自然体なのである。「まず、サア、サア・・・」と家の中に誘い、囲炉裏端へ案内される。明るい所から家の中に入ると、あの頃の農家の家の中は真っ黒で、一層真っ暗だった。湯呑茶碗を私達に、あのごつい手で配ると、ヤカンの湯を注ぐ・・・湯は酒なのである。
笹の会(61年度同期の全日WV役員と理事校三役による会)*第9回は飲み会を除くもの。
日・中・慶・明・明学・同志社(今回青学は欠席)から19名が参加。明治の山荘がある手白沢(奥鬼怒)集結で2パーティ(①尾瀬大清水から山越えで手白沢②女男淵から渓流沿いを散策して手白沢)で、私は山越えに参加した。慶応二人、日大一人の計4名。勝手知ったる「おい・お前の」4人組である。林道3時間の後、1.3km直線の奥鬼怒トンネル通りぬけ、途切れ途切れの赤布頼りに水涸れの急傾斜な沢を詰めること3時間半。稜線近くになっていることはおおよそ感じられるものの、笹やぶに遮られ道はない。もちろん赤布もなくなり地図を頼りに日差しが差し込む稜線目がけて進もうとするのだが、足元手元を支えるのもは笹だけ。滑る、滑る笑っちゃう他はない。
50周年ぶりのやぶ漕ぎも味わい日光沢へたどり着いたのは夕方5時ちょっと前だった。明治の顔が利く、手白沢温泉で19名の盛大な宴会。来年はMGWVの小屋とその周辺で行う。幹事校は明学・同志社・青学三校と決まって、終宴。