追悼文
戸丸朝二さん(朝アニイ)の逝去に寄せて 2016年10月17日
尺取庵 川井宏作
私達が知りあった時(1963年)、朝二さんは30歳になるかならない頃だった。この頃から「朝アニイ」と、村の人達から呼ばれていた。それで私達も、親しさの増す中で朝アニイと呼ぶようになった。朝二さんは若い頃からそれに相応しい人柄だったからだろう。無口で力持ち、それで働き者。だが自分の意見はしっかり持っていて、村の長老や、時に村長にも、自分の考えをはっきり言っている場面に出会ったからよく知っている。私達のような新参者と言うか、たかが大学生にも実に面倒見が良かった。格好付けや、自己顕示のためではなく、田舎の人らしい極自然に面倒見が良い人だった。この頃の田舎の人は、外部の人に慣れしていないことや、引っ込み思案な人が多く、余り外部の人間には近づかないものだが、朝アニイは全くそう言う所がなかった。自然体なのである。「まず、サア、サア・・・」と家の中に誘い、囲炉裏端へ案内される。明るい所から家の中に入ると、あの頃の農家の家の中は真っ黒で、一層真っ暗だった。湯呑茶碗を私達に、あのごつい手で配ると、ヤカンの湯を注ぐ・・・湯は酒なのである。
私達には「山小屋を建てる」と言う明確な目標がある。しかし、それに必要な知識も経験も皆無である。只あるのは意欲・体力と「営林署からの建築許可(国有林の賃貸契約)」だけである。「全て聞きまわって教わる」しかない。大きなところでは、◆どうやったらあの場所に小屋が立てられるか◆あの場所で建てくれる様な大工さんは、この村にいるか◆どの辺りから荷揚げをすれば、一番労力が少ないか→大室木工の集材機情報が入る。村の人から、「所で、砂・砂利など基礎打ちに必要な資材はどうやって運ぶの?」と聞かれ、応えられない。「背負って行く」だけ・・・「エエツ、背負って行く?」と、村人同士顔を見合わせ笑っている。「どうやって背負うの(入れ物は)?」応えられない・・・。路線バスのバスガールさんに顔を覚えられる位、足を運んで、自分達がやることを書きだし、大工さんを探し、集材機が使えるようにお願いして回った。こちらの人は優しい、出来そこないの大学生の云うことを良く聞いてくれて、お願いや交渉事は皆上手く行った。最後の最後まで誰にも判らなかったことは「何日で建設場所まで荷揚げが完了するか」だった。これが把握できないと合宿日程がたたない。朝アニイを始め誰からも答えは得られないと判った時、最後はお得意の「エイヤ!」で男子部員だけで「1週間」でやろう!と決めた。基礎資材の荷揚げは5日間で終わった(1964年6月26日から30日)材木関係は9日間(7月19日から27日)→この活動から夏合宿として扱い男女一緒(女子も材木荷上げを行う)。男子は8月17日まで、女子は28日から6日間の休みを入れて8月17日までの長丁場だった。
ま、それはそれとして・・・。基礎資材と材木の荷揚げ期間の2週間は、毎日、一日何回も朝アニイが全神経を集中してキンマ(木の馬の意で、一本角の舵が突き出た橇のこと)の舵を脇の下に抱え込み、両足を踏ん張ってソロソロ下りてくる姿と行き交う。朝アニイは、集材機の積載場で、うずたかく積んだ材木のロープを外す。材木は勢い良くコロガリ落ちる。私達は、その場が荷揚げのスタート地点。「アカチョイ、アカチョイ・・・」(集材機のワイヤーに、材木を吊す目安の赤布がついていて、位置合わせのための合図の言葉)と、集材機を指揮するお兄さんの元気な掛け声が響く。この声が大きく聞こえてくるようになると朝アニイと私達の交感の場だ。登りと下りで、荷のあるなしの違いはあるものの汗と汗が飛び交い、時に下級生の悲鳴が混じり、お互いの息使いや筋肉の緊張さえ聞こえてきそうな、お互いの真剣勝負の場でもある。下りに満載となるキンマを操る朝アニイの仕事は、チョットでも気が緩めば、体はキンマもろとも谷底へ飛ぶ。大けがでは済まない位の急斜面を下って来る・・・そり道は橇の滑りを良くするようにオイルが塗ってあるから、なお更である。朝アニイの首と両腕は真っ黒に日焼けしあくまで太く、まるで荷車を引く牛のような逞しさで、私達大学生の倍はあるだろう。
私は今でも「基礎資材の荷揚げが、思っていたより早い5日間で出来た」のは、毎日朝アニイの働く姿が、体力が劣る下級生を含め部員80人の刺激となり「東京の大学生は良く働くな」と、たまに発する朝アニイの言葉に励まされ、部員全員が奮起したからだと思っている。
そんな猛牛が、家を訪ねると、自分から玄関先に現れて、私達を囲炉裏端へ招じ入れ「サア、サア・・・」で始まる酒盛りである。何しろ面倒見が良かった。何の飾り気もなく、いつも自然体で、これが私達大学生にも好感が持て、親しみを感じ・・・朝アニイ!となった所以である。何処からともなく砂・砂利を背負うためのカマス(筵を二つ折りにして左右を藁縄で縫い合わせた袋のこと)を沢山持って来てくれたのも朝アニイだった。*ところで「筵(むしろ)」(麦わらで編んだゴザ状の敷きもののこと)は、知ってるよね?
そんな人がある時、民宿を始めた。私達が卒業して数年後、スキーブームが到来「朝アニイ、大丈夫かな?」と驚いた。それほど年数も経たない内に民宿のオヤジも板につき、私達の心配は杞憂に帰すことになる。
こんなこともあった。久々に「ぬく湯荘」を訪ねて行くと「川井さん、温泉を掘ろうと思うんだけど…」「へ―――、温泉ね、幾らかかるの?」「1,000m位で出たら1,000万円、ここで出れば良いがでなければさらに掘り進めて費用は追加となる」「メーターあたり1万円だから200m掘り進んだら200万円追加か?」「いやそれより深いと費用はもっとかかるらしい・・・」民宿の投資としては過分と感じて「出るか出ないか判らないものに金を出すと言うのは冒険だね」「花咲くでも2,3軒が掘り始めているんだ・・・」と言っていたが、この話は一回きりで沙汰止みとなった。それから5年経つか経たない内にスキーブームは下火となり、10年経たない内に夜行のスキーバスは新宿西口や東京駅丸の内口辺りでは見掛けなくなってしまった。温泉を掘った2,3の民宿は、その後どうなったのだろう?と、たまに思うことがある。その後、朝アニイは「山菜とりの名人」としてTVに何度も出るなどチョットした片品の有名人になっていた。朝アニイは、自分の得意技で民宿商売に精を出した、と言うことである・・・根が、賢いのである。
朝アニイの無口で朴訥な所は親父さん似で、自然体で面倒見の良さはお袋さん似なのだと暫くしてから思ったことがある。その小柄なお袋さんが、私達の酒盛りに加わり「俺達が若い頃は1升飲んでからバイクで隣村まで行ったもんだ」が、口癖だったことを思い出す。若い頃は髪結いをしていただけのことがある、田舎のオバアにしては明るく元気のよい人だった。すっかりご馳走になり、そろそろ寝ようかと云う時になると、そのオバアが「川井さん風呂に入れ!」と来るのには参った、参った!!飾り気のない自然体の朝アニイの生き方が、スキー客、山菜とりの人や林間学校の先生方に多くのファンを作っただろうことは間違いない。ぬく湯荘の繁盛は、周りの同業者からもうらやましがられ、外部の人の手を借りる程、シーズンと問わず多くのお客さんが来ていた。
話せばきりがない程、お互い若い頃からのお付き合いだ。10月11日亡くなったと聞いて、正直、驚きを越して身の切られる思いがした。50年以上も前から「お互いの若き全盛期を良く知っている」と言うことは「身内感覚であり、何事にも換え難い仲」に昇華しているからだろう。
朝アニイ!ゆっくり休んでください。私も遠からずそちらへ行きますよ。昔話をしながら、一杯やりましょう!!合掌
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