シカ・キツネ・羆と、生き物を何でも殺す狩人が著者。
現代にあって(1970年頃)猟師で生きて行こうと決意する。
羆猟は足跡を丹念に探し出し、長いことその跡を付けライフルの射程距離におさめ、スドンと一発あるいは二発で仕留める・・・これも職業だからと思いながら読み進めた。
季節の移ろいの描写、山を形作る尾根、沢筋、山道、道なき道を歩く藪こぎ、日が暮れてビバーク・・・登る・下る・水平移動など、文書と呼吸がピタッと合ってきて、汗ばんだ首筋を爽やかな風が吹き抜け、山にいる錯覚に捉われる。お、おーーー・・・。
著者は人が出す気を抜き去り、自然と一体となり溶け込んで行く、それが猟師として一人前でありプロなのだと言う。
「シカの腹を裂いた、その腹腔に凍えてかじかんだ両手を潜りもませて温める。・・・最後の温もり、命の温もりの全部を両手でもらった」これこそ自然の中で生きる動物と人間の渾然一体の姿だと思った。
「殺して一体となれる絵なのだ」
この著者が発する凄まじさに、鈍い私の頭は覚醒した。
愛犬フチとの呼吸の一体化とその別れでは、著者のすごさは人間のおごり、むさぼり、卑しさとは遠く離れて、自然を、動物を、そして人間を愛する優しさがその源流なのだと・・・。
正に残酷さの裏返しである。
謙虚さは人に対するものだけでなく、暑さ、寒さ、雪、風、山の斜面など自然のありとあらゆるものに、そして愛犬と己自身に対してあるものなのだと気が付き、涙、涙が溢れた。
野生動物を殺すという物語の中から、自然の一部であるはずの自分を含む現代人に、春先の爽やかな風が吹き抜けたような快書である。